にわかクリスチャンの雑考

「人生の謎」について興味が尽きないおっさんの日記

私の中の罪の問題

幼いころから同居していた私の祖父は、「どんな宗教も、一神教の神は名前が違うだけであって、本当は同じ神様である。」という教えを旨とする宗教を信仰していました。

つまり、日本の神道仏教、そしてキリスト教ユダヤ教などの一神教も、「教えの根本」においては一致しているというのです。
 
たしかに、日本神道における天照大神もそうですが、無神論と言われている仏教でも、大日如来阿弥陀仏のように、一神教の神概念に近い存在もあります。ですから、「すべての宗教の真髄は一神教に行き着く」という考えには、とても惹かれるものがありました。国や時代が変われば、同じ唯一の神であっても、その風土に合った「あらわれ方」があるんじゃないかと。また、あまりよい例えではないかもしれませんが、同じ舞台で俳優が変装して、一人何役も演じるように、神の「姿」や呼び名がシチュエーションによって変化することだってあると思いました。
 
20代の頃、交友関係のトラブルが原因で、抑うつ状態となりましたが、祖父の信じていた、この宗教を熱心に信仰することで立ち直ることができました。
 
一方で、キリスト教、とくに聖書に出てくるイエスの教えにも興味がありました。しかし、イエス・キリスト「だけ」が神と人との仲介者であって、彼を通さなければ(信じなければ)救われない(天国に行けない)という教えには抵抗がありました。

そもそも、キリストが生まれる前に死んでしまった、「無数の魂」はどうなっていまうのか?

アジアやアフリカの奥地など、宣教師がいまだ派遣されず、もしもイエスの教えを聞くことができたならば信じたかもしれない、しかし聞くことができなかった人たちの運命はどうなるのでしょう?

キリスト教神は、不公平で「えこひいきな」をするお方であり、あるいは「ずぼら」な神、「うっかり屋の」神ではないかと思っていました。

 
しかし、私が長年信仰してきた宗教では、どうしても解決できない、自分の中の罪の問題がありました。

それは、家庭内で突然「キレる」という悩みです。

職場の同僚に話をしても、だれも信じてもらえませんが…。
 
クリスチャンになる前は、年に数回ですが、家庭内でなにか不満が鬱積すると、突然冷静さを完全に失い、怒りを爆発させてしまうのです。私は(自分で言うのも気が引けるのですが)、普段は温厚で、気は長い方です。しかし、我慢の限界に達すると突然、「どこから、そんな声が出るんだろうか?」という奇声をあげて、周囲にある物を手当たりしだい破壊します。まさに、自分の中に魔物が住んでいるという感じです。
 

この時ほど、自分を突き動かしている「罪の力」を感じることはありません。

 
年に数回とはいっても、その度に、妻や子どもたちから、夫として、父としての信頼を失います。妻や子どもの心の片隅に、いつも、私に対する恐怖心があったのではないかと思います。ですから、この突然キレるという悪癖をなんとかしたかったのです。
 
この宗教では、智慧と愛と生命の源である神に満たされ、神との一体感をイメージする瞑想をします。人間は本来、罪穢れのない聖い存在であるため、神との一体感を深めることで、その本来の聖い性質が表に現され、性格も運命も改善されるというのです。

人間にとって「罪穢れ」とは、例えば、ダイヤモンドの表面についたほこりや汚れのように、ふき取れば綺麗になるので、ダイヤモンドの価値そのものに何ら変わりがないという教理です。

たしかに、神道では罪の問題を穢れ(気枯れ)を禊(みそぎ)によって清めることで解決しようとします。仏教の中にも、「無明=心の迷い」が罪の原因であり、あくまでも「迷っている」状態であって、覚りに達する(気づく)だけで、罪の問題が解決されるという考え方があります。
 
この教理を信じ20年以上瞑想を続けてきましたが、ついに「キレる」悪癖を克服することはできませんでした。いやむしろ、清くなるというより、闇の部分がよりリアルに感じられるようになってきました。
 

 …それから、親鸞聖人の「歎異抄」にも感銘を受け、念仏を唱えたり、坐禅をやったりしましたが、やはり自分の中にある罪の問題の解決にはつながりませんでした。(熱心さが足りなかったり、やり方が間違っていただけかもしれませんが…)

 

そして、「何か違う!」という思いを抱きつつ、「ホンモノ」を求め続けたのです。